映画監督の宮崎駿さんの出身高校や大学の偏差値などの学歴情報をお送りいたします。数々のヒット作で知られる宮崎さんですが、どのような学生生活を送っていたのでしょうか? 学生時代のエピソードや情報なども併せてご紹介いたします
宮崎駿(みやざき はやお)
1941年1月5日生
身長164㎝
血液型はO型
東京都出身の映画監督、アニメーター
本名同じ
以下では宮崎駿さんの出身高校や大学の偏差値、学生時代のエピソードなどをご紹介いたします
スポンサードリンク
宮崎駿の学歴まとめ
出身大学:学習院大学 政治経済学部
出身高校:都立豊多摩高校
出身中学校:杉並区立大宮中学校
出身小学校:杉並区立永福小学校
宮崎駿の学歴~出身小学校(杉並区立永福小学校)の詳細
出身小学校:東京都 杉並区立永福小学校
宮崎駿さんの出身小学校は、地元杉並区内の公立校の永福小学校です。
父親は伯父と共に町工場を経営していました。
小学1年生の時に母親が難病にかかっており、以降は9年間自宅療養をしていました。
4歳の時に宇都宮大空襲に遭ったため、母親らに連れられてトラックで別荘へと移りここで終戦を迎えています。
このときに近所の人たちを見捨てて自分たちだけトラックで逃げたことが、宮崎さんの心に重くのしかかったそうです。
宮崎さんはスポーツは苦手でしたが、子供の頃から絵を描くのは抜群に上手でした。
子どもの頃は飛行機の絵を描くことが好きでした。
子供の頃のお小遣いは全て本を購入していたそうです。
宮崎駿の学歴~出身中学校(杉並区立大宮中学校)の詳細
出身中学校:東京都 杉並区立大宮中学校 偏差値なし
宮崎駿さんの出身中学校は、地元東京都杉並区内の公立校の杉並区立大宮中学校です。
宮崎さんは中学・高校を通じて部活動などはおこなっていません。
また子どもの頃から本が好きで、中学時代は戦記ものをたくさん読んでおりインタビューで次のように話していました。
「ぼくは、もの凄い量の戦記ものを読んだんです。中学生の頃から。それで、何が分かったかっていうと、読んだだけで、こいつ嘘書いてるって分かるようになったんですね。ほんとうのこと書いてる人間っていうのは、ほんの僅かいます。」
【主な卒業生】
後藤久美子(女優)
小川麻琴(モーニング娘。)
田中れいな(モーニング娘。)
スポンサードリンク
宮崎駿の学歴~出身高校(豊多摩高校)の詳細
出身高校:東京都 豊多摩高校 偏差値62(現在・やや難関)
宮崎駿さんの出身高校は、都立の共学校の豊多摩高校です。
この高校は1940年開校の都立高校で、部活動が盛んなことで知られています。
また同校は現在でもそれなりのレベルを誇っていますが、宮崎さんが在籍当時は現在以上の進学校でした。
宮崎さんは手塚治虫さんの影響を強く受けて、高校1年生のときには漫画家を志すようになりました。
後述するように母親は難病を患っていましたが、宮崎さんが高校2年生の時に新しい抗生物質で病気が治りました。
宮崎さんの母親に対する不安は解消されましたが、その一方で自分の将来については不安が募っていったことから漫画を描き続けました。
宮崎さんはそう言った不安や社会に対する不信感、親から早く自立したいという思いからハッピーエンドではない暗くシュールな漫画ばかり描いていました。
当時のことについて自身の著書に次のように綴られています。
「受験の暗ヤミの時期にちょうど劇画雑誌が出ていたことに端を発します。そういった劇画雑誌には、世の中はうまくいかないものだということばかりを描いていた不遇の劇画家、特に大阪あたりに巣くっていた、巣くってなどと言うと大阪の人たちに申し訳ないですが(笑)、その彼らが恨みつらみを込めて描いているものですから、ハッピーエンドがひとつもないわけです。なるべく皮肉に終わろうとんするんですね。それが、暗ヤミの受験生にとって一種の爽快感になっていたんです。」
記事引用:bravesoft株式会社
宮崎さんは大学受験で鬱々した日々を過ごしていましたが、高校3年生の時に日本で初めて長編カラーアニメーション「白蛇伝」が公開され、宮崎さんは映画館でこの映画を観てヒロインに恋をしたそうです。
そんな時に「ああ、これが作りたかったんだ。オレは純粋にオモシロイものを作りたいんだ。」ということに気づき、アニメーションにも興味を持つようになりました。
【主な卒業生】
イッセー尾形(俳優)
黒田福美(女優)
長井短(女優)
スポンサードリンク
宮崎駿の学歴~出身大学(学習院大学)の詳細
出身大学:学習院大学 政治経済学部 偏差値不明
※現在は政治経済学部はなし
宮崎駿さんは高校卒業後は、学習院大学に進学しています。
在籍した政治経済学部は1964年に終了しており、その後は法学部政治学科(偏差値60)と経済学部(偏差値58)に分かれており当時のレベルは不明です。
宮崎さんは高校時代から漫画家を志しており、美術大学に進学を希望していましたが父親に反対をされたことでこの大学に入学しています。
また当時のこの大学には漫画サークルがなかったため、児童文化研究会に在籍をして漫画を描いていました。
宮崎さんは自身の大学時代について著書で次のように綴っています。
「大学の四年間、僕は経済学部にいたんですけど、経済については全然勉強しなかった(笑)。でも、絵の勉強にかんしての時間は有効だったと思います。動物を描こうと思ったら動物園へいって、デッサンを長々とやっていました。これで少しはうまくなってるのかしら、と考えると全然自信はなかったけれど。」
記事引用:ライブドア
また大学時代に描いていた漫画が「手塚治虫さん、そっくり」と言われており、それがかなりショックだったため、真似をしないように描いていましたがどうしても似てしまう作品になっていました。
そのため儀式まで行っていたようで、次のように綴られています。
「たんすの中に描きためたものを全部燃やしたりする “儀式” もやってみたんだけど、ああいうのは全部意味がない。また同じものを描きはじめる(笑)。」
記事引用:ライブドア
しかしその結果、漫画には向いていないという結論が出てアニメーションにも興味があったことから、大学卒業した1963年に東映動画に入社しました。
入社2年後の1965年には「ガリバーの宇宙旅行」の制作に参加しています。
東映動画時代に才能の発揮するとともに、労組の書記長としても活動しており、アニメーターの待遇改善に尽力しています。
30歳だった1971年に東映動画を退社してAプロダクションに移籍しています。
1974年に手掛けたテレビアニメの「アルプスの少女ハイジ」がヒットして、知名度が上昇しています。
また1978年には「未来少年コナン」の監督を務めています。
さらに1979年にはじめて手掛けた劇場版アニメ「ルパン三世 カリオストロの城」は、シリーズの中でも高く評価されて名作とされています。
1984年には「風の谷のナウシカ」が大ヒットしています。
そして44歳だった1985年にスタジオジブリを設立しています。
すると以降は「となりのトトロ」や「魔女の宅急便」、「もののけ姫」などのメガヒットを連発。
国内ばかりか海外からも高い評価を得ています。
今後の作品にも注目ですね。
以上が宮崎駿さんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。
スタジオジブリ設立後は、数多くの大ヒット作を手掛けて、日本国内ばかりではなく、海外からも高い評価を受けています。
そのため国内外に熱狂的なファンも多数います。
末永い活躍を期待したいところです。
宮崎吾朗の学歴|出身大学高校や中学校の偏差値と学生時代のエピソード
経歴/プロフィールの詳細
1963年にアニメーターとして東映動画に入社。
東映時代は「ガリバーの宇宙旅行」や「太陽の王子 ホルスの大冒険」などを手掛ける。
1971年に東映動画を退社して、以降はテレビアニメ「ルパン三世」や子供向け映画「パンダコパンダ」の制作に関わる。
1974年にアニメ「アルプスの少女ハイジ」を手掛けて、知名度が上昇。
1979年の「ルパン三世 カリオストロの城」でアニメ映画初監督。
1984年に監督した「風の谷のナウシカ」がヒット。
1985年にスタジオジブリを設立し、以降は「となりのトトロ」や「魔女の宅急便」、「もののけ姫」など大ヒットを連発。
私生活では1964年にアニメーターの女性と結婚し、2人の息子がいる。
長男は映画監督の宮崎吾郎。
スポンサードリンク
ここまでお読みいただきありがとうございました。ご質問やご意見などがございましたら、お手数をおかけしますがページ上の「お問い合わせ」よりお願いいたします。また出身校や偏差値情報などのリサーチには万全を期しているつもりですが誤りなどがあった場合はご指摘していただけると幸いです。なお返信はあるだけ早くおこなうようにしていますが、数日かかる場合があることをご了承ください。