タレントのラサール石井さんの出身高校や大学の偏差値などの学歴情報をお送りします。実はラサールさんは進学校に通学しており、東京大学を目指していました。学生時代のエピソードや情報、若い頃の画像なども併せてご紹介いたします
ラサール石井(らさーる いしい)
1955年10月19日生
身長163㎝
血液型はO型
大阪府出身のお笑いタレント、俳優
コント赤信号のメンバー
本名は石井章雄(あきお)
以下ではラサール石井さんの出身高校や大学の偏差値、学生時代のエピソードなどをご紹介いたします
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ラサール石井の学歴まとめ
出身大学:早稲田大学 第一文学部(除籍)
出身高校:ラ・サール高校
出身中学校:大阪市立住吉中学校
出身小学校:大阪市立住吉小学校
ラサール石井の学歴~出身小学校(大阪市立住吉小学校)の詳細
出身小学校:大阪府 大阪市立住吉小学校
ラサール石井さんの出身小学校は、地元大阪市内の公立校の住吉小学校です。
家族構成は両親と兄と姉の5人家族です(3人きょうだいの末っ子)。
石井さんは子供の頃から読書や漫画好きな少年でした。
その反面運動音痴で、スポーツは苦手です。
小学校時代はあまり真剣に勉強はしておらず学校の成績は悪かったのですが、本人曰く「やればできる」と思っていたそうです。
また当時からお笑いが大好きでした。
ラサール石井の学歴~出身中学校(大阪市立住吉中学校)の詳細
出身中学校:大阪府 大阪市立住吉中学校 偏差値なし
ラサール石井さんの出身中学校は、地元大阪市内の公立校の住吉中学校です。
この中学校に在学中は、1学年下に元サッカー日本代表監督の岡田武史さんが在籍していました。
中学校・高校を通じて部活動などはおこなっていません。
ラサールさんは実家の裏に有名な進学塾の入江塾(伸学社)があったことから、中学1年生の頃から「なんとなく」通学していました。
ただし高校2年生までは塾をサボりまくって、ミナミなどの繁華街で遊びまくっていたとインタビューで話しています。
ところがラサールさんは中学3年生の時に塾の先生に名指して塾生の前で、「これが敗北者の目だ」と言われてしまいます。
また翌日から塾に泊まり込むように命令されています。
その際には学校を休んで辻褄を合わせています。
とは言え灘高校の受験日の2週間前からは朝から晩まで塾にいて、猛勉強をしています。
ちなみにラサールさんは人生で本気で勉強したのはこの2週間だけとインタビューで話しています。
さらに灘高校には塾生60人とバス2台で乗り付けて、みんなでラジオ体操をして他の受験生たちを威圧もしています。
しかしそのような努力の甲斐もなく灘高校は不合格になっています。
なお中学時代に青島幸男さんのファンになっており、放送作家を志しています。
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ラサール石井の学歴~出身高校(ラ・サール高校)の詳細
出身高校:鹿児島県 ラ・サール高校 偏差値76(超難関)
ラサール石井さんの出身高校は、私立の男子校のラ・サール高校です。
この高校は1950年開校のキリスト教系のミッションスクールで、早くから寮を設置していたことから古くから日本全国から進学する生徒がいました。
ラサールさんは大阪育ちですが、越境入学でこの高校に進学しています。
また同校の校名がラサールさんの芸名にもなっています。
ただし第一志望は兵庫県の有名進学校の灘高校で、灘高校の合格発表の日に夜行列車に乗ってこの高校を受験していました。
さすがに灘高校を志望していただけあって、ラサールさんはこの高校は7番の成績で合格しています。
(高校時代)
高校時代はこの高校の寮があった鹿児島市で3年間過ごしています。
ただしラサールさんは高校進学後はあまり勉強しなくなって、テレビ室の常連になっています。
また当時はフォークソングにも熱中していました。
さらに近所の女子校と合同ハイキングもおこなっています。
そのため高校時代に成績が急落して、卒業する際には243番だったとコメントしています。
とは言え当時を振り返って「全寮制だったけど放任主義で楽しい学生生活だった」とインタビューで話しています。
そのため高校時代は充実していたようです。
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ラサール石井の学歴~出身大学(早稲田大学)の詳細
出身大学 早稲田大学 第一文学部仏文学科(除籍) 偏差値65(難関)
※現在は文学部
ラサール石井さんは、高校卒業後は名門私大の早稲田大学に進学しています。
第一志望は東京大学でしたが不合格となって、早稲田に進学しています。
また早稲田大学の政治経済学部なども受験していますが、第一文学部のみの合格となっています。
そのため東京で浪人生活をすることも検討しましたが、誘惑に勝てないと思って第一文学部に進学しています。
ラサールさんはこのあたりの経緯については、インタビューで次のように話しています。
「 共通一次はよかったんですが、二次試験はむずかしくて太刀打ちできなかったですね。一方でお試しで受けたつもりの早稲田大学の政治経済部にも落ちてしまって、文学部だけ合格したんです。 初めて東京に来たら楽しくて、ここで浪人したらもうどこにも受からないだろうと、そのまま早稲田の文学部に入りました」
記事引用:講演依頼.com
ちなみにラサールさんは57歳だった2012年から3年連続で東京大学を受験してリベンジを図っていますが、残念ながら3年連続で不合格になるという結果に終わっています。
大学進学後は早稲田大学のミュージカル研究会に所属しています。
またその傍らで放送作家としても活動しており、歌謡バラエティ番組の「チビラサンデー」のコントなどを制作していました。
並行してラサールさんは俳優養成所「テアトル・エコー」にも入所しており、演技の勉強もしていました。
ここで渡辺正行さんと小宮孝泰さんと出会っています。
そして大学3年生だった1974年に渡辺さんや小宮さんと「コント赤信号」を結成してお笑いタレントとして活動を開始。
コント赤信号はすぐに注目されて売れっ子になりますが、多忙になって大学への通学が困難になって、結局は除籍になっています。
しかしその後の活躍は目覚ましく、単独でも80年代後半から90年代にかけてブレイクして、数々の番組に出演しています。
また俳優としての活動も並行しておこなっており、多くの人気ドラマや映画にも出演しています。
以上がラサール石井さんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。
「コント赤信号」のメンバーとしてデビューしていますが、その後はタレントとして数々のバラエティ番組に出演していました。
また1990年代にはその博識を活かして、「平成教育委員会」や「マジカル頭脳パワー」などのクイズ番組でも活躍しています。
さらに俳優としても話題作のテレビドラマに出演するなど、以前からマルチに活動していました。
年齢は60代に突入していますが未だに第一線で活躍しており、今後の動向にも注目です。
経歴/プロフィールの詳細
劇団テアトルエコーの養成所に入団し、1977年に一期下の渡辺正行と小宮孝泰とともにコント赤信号を結成。
同年の「太陽にほえろ!」で俳優デビュー。
トリオは1980年の「花王名人劇場」でテレビデビュー。
1980年代に人気を博したが、その後は個人での活動が主となっている。
1981年から「オレたちひょうきん族」のレギュラーに起用され知名度が上がる。
1990年代以降は、「平成教育委員会」や「マジカル頭脳パワー」、「目撃!ドキュン」などの多くのバラエティー番組に出演。
俳優としても「3年B組金八先生」や「半沢直樹」、「あさが来た」などのドラマに出演。
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