人気作詞家で「AKB48」や「乃木坂46」などのプロデューサーで知られる秋元康さんの出身高校や大学の偏差値などの学歴情報をお送りいたします。実は秋元さんは東京大学志望でしたが、高校時代に放送作家の仕事をはじめてから人生が変わっています。学生時代のエピソードや情報、若い頃のカッコイイ画像なども併せてご紹介いたします
秋元康(あきもと やすし)
1958年5月2日生
身長166.7㎝
血液型がO型
東京都出身の作詞家、放送作家、プロデューサー
本名同じ
以下では秋元康さんの出身高校や大学の偏差値、学生時代のエピソードなどをご紹介いたします
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秋元康の学歴まとめ
出身大学:中央大学 文学部(中退)
出身高校:中央大学附属高校
出身中学校:保谷市立ひばりが丘中学校
出身小学校:保谷市立中原小学校
秋元康の学歴~出身小学校(保谷市立中原小学校)の詳細
出身小学校:東京都 保谷市立中原小学校
秋元康さんの出身小学校は、保谷市立中原小学校です。
家族構成は両親と9歳年下の弟です。
秋元さんは意外にも子供の頃は体が弱く、小児喘息を患っていました。
また小学校時代から学校の成績は優秀でした。
体が弱かったこともあり、当時は勉強ばかりしていたとインタビューで話しています。
小学校時代から東京大学を目指しており、進学塾にも通学しています。
秋元康の学歴~出身中学校(保谷市立ひばりが丘中学校)の詳細
出身中学校:東京都 保谷市立ひばりが丘中学校 偏差値なし
秋元康さんの出身中学校は、地元保谷市(現在は西東京市)内の公立校のひばりが丘中学校です。
実は秋元さんは中学受験で超難関校の開成中学校(偏差値76)を受験していますが不合格となったことから、地元の公立校のこの中学校に進学しています。
当時の夢は官僚になることでした。
ただし中学入学後は高校から勉強して東京大学に進学すればいいと考えたことから、まったく勉強をしなくなったとインタビューで話しています。
中学時代は分け隔てなく人と接しており、不良グループとも仲が良かったそうです。
また中学3年生の時には女子にモテるためにバンドも結成しています。
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秋元康の学歴~出身高校(中央大学附属高校)の詳細
出身高校:東京都 中央大学附属高校 偏差値63(当時)
秋元康さんの出身校は、私立の男子校(当時)の中央大学附属高校です。
同校は現在は共学校で偏差値も70程度ある難関校ですが、当時は現在ほどのレベルではありませんでした。
秋元さんは高校時代は部活動などはおこなっておらず帰宅部でした。
また当時は東京大学への進学を志していました。
ところが勉強の合間に聴いていたラジオドラマが自分にも書けそうだったことから、原稿用紙に記載してラジオ局に送ったことがきっかけで放送作家になっています。
高校2年生の時にせんだみつおさんを主人公にしたパロディの台本を作成してニッポン放送に送ったところ、当時の人気放送作家の奥山コーシンさんの目に留まって弟子入り。
そのため高校時代にはラジオ番組の台本などを書いています。
(高校時代)
なお高校時代に放送作家としての仕事をはじめたことから東京大学への進学は諦めて、エスカレーター式に中央大学に進学しています。
【主な卒業生】
ナオト・インティライミ(ミュージシャン)
生田竜聖(アナウンサー)
湯上響花(ファッションモデル)
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秋元康の学歴~出身大学(中央大学)の詳細
出身大学:中央大学 文学部(中退) 偏差値58(中の上)
秋元康さんは高校卒業後は、中央大学に進学しています。
前記のようにこの大学の系列校に通学していたことから、大学は一般受験での入学ではなく内部進学で進んでいます。
また秋元さんは高校時代から放送作家として活動しており、大学時代には放送作家としての活動を本格化させています。
当初は放送作家の仕事をアルバイト程度にしか考えていませんでしたが、大学時代に実はサラリーマンの4倍近い収入であることを知って仕事として取り組むようになります。
当時は「ひらけ!ポンキッキ」や「ザ・ベストテン」などの人気番組の構成を務めています。
20歳くらいの頃からは作詞もはじめて、24歳の時に手掛けた「ドラマチックレイン」が初めてヒットしました。
このように大学時代から放送作家や作詞家として活動していたことから大学にはあまり通学できず、「5、6年通学していた」と述べています。
またインタビューで大学を辞めた経緯については次のように話しています。
あまり覚えてないですが、5〜6年は間違いなく行ってると思います。籍だけはあるという感じでしたね。その途中でどうしてもテレビの原稿の締切と学校のレポートの締切が重なって何度も呼び出されて「どうするんだ」と言われて、もうその段階で中退届けを出そうと思って大学を辞めました
記事引用:Musicman
以降は放送作家や作詞家の仕事に専念しますが、転機となったのは27歳だった1985年に放送作家として関わったテレビ番組「夕やけニャンニャン」です。
この番組で出演していた「おニャン子クラブ」や「とんねるず」が売れっ子になっていくのを目の当たりにして、プロデュース業に興味を持っています。
また一連の「おニャン子クラブ」関連の楽曲の作詞を手掛けたことから、作詞家の可能性も見出しています。
当時はこのまま放送作家としての活動を継続しても年収はせいぜい1500万円程度だったことから、作詞家に専念することを決意しています。
ちなみに「夕やけニャンニャン」には秋元さんはプロデューサーとして関わっていましたが、本人によれば「共同作業者のひとりで、仕掛け人ではない」とのことです。
しかしこの経験が後のAKB48の立ち上げの糧になったことは間違いのないところでしょう。
また1988年には「おニャン子クラブ」の人気メンバーだった高井麻巳子さんと結婚しています。
作詞家としては31歳だった1989年に美空ひばりさんに提供した「川の流れのように」が大ヒットして、その地位を不動のものにしています。
ちなみにこの曲の印税だけでも年間1億円とも2億円とも言われています。
以降は数々のヒット曲を手掛けるとともに、さらに49歳からプロデューサーを務めるAKB48が一世を風靡しています。
その後も乃木坂46や欅坂46などのトップアイドルグループを世に送り出して、プロデューサーとしても才能をいかんなく発揮しています。
以上が秋元康さんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。
作詞家としては数え切れないほどのヒット曲を世に送り出しています。
またプロデューサーとしても、AKBグループや坂道グループなどの人気アイドルグループを手掛けています。
既に年齢は60歳を超えていますが、未だに精力的な活動を展開しており、今後のさらなる活躍にも期待が高まります。
経歴/プロフィールの詳細
当初は放送作家として活動して、「ひらけ!ポンキッキ」や「ベルトクイズQ&Q」などの構成を手掛ける。
1981年にアルフィーの「言葉にしたくない天気」で、本格的に作詞家としてのキャリアをスタート。
以降は稲垣潤一の「ドラマチックレイン」や小泉今日子の「なんてったってアイドル」がヒットして知名度が急上昇。
放送作家としても手掛けた「オールナイトフジ」や「夕やけニャンニャン」などの番組がヒット。
1989年に美空ひばりの「川の流れのように」が大ヒットして、作詞家としての地位を不動のものにする。
2005年にAKB48をプロデュースし、以降は一連のAKBグループや坂道シリーズなどをヒットさせる。
私生活では1988年におニャン子クラブのメンバーだった高井麻巳子と結婚し、2001年に長女が誕生している。
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