忌野清志郎の学歴|出身は日野高校!大学や中学校の偏差値|三浦友和と同級生

 

ロック界のカリスマとして活躍し2009年に58歳の若さで亡くなった忌野清志郎さんの出身高校の偏差値などの学歴情報をお送りいたします。実は忌野さんは高校時代は俳優の三浦友和さんと同級生でした。学生時代のエピソードや情報なども併せてご紹介いたします

 

忌野清志郎(いまわの きよしろう)

 

 

1951年4月2日‐2009年5月2日

身長168㎝

血液型はA型

 

東京都中野区出身のミュージシャン

本名は栗原清志(くりはら きよし)

 

以下では忌野清志郎さんの出身校の偏差値や学生時代のエピソードなどをご紹介いたします

 

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目次

忌野清志郎の学歴まとめ

 

出身大学:進学せず

出身高校:都立日野高校

出身中学校:国分寺市立第三中学校

出身小学校:国分寺市立第二小学校

 

忌野清志郎の学歴~出身小学校の詳細

 

小学校:東京都 国分寺市立第二小学校

 

 

忌野清志郎さんの出身小学校は、国分寺市内の公立校の第二小学校です。

 

家族構成は両親と弟の4人家族です。

 

 

小学生の時は漫画に熱中していました。

 

実際に自分で漫画を描いていたというエピソードがあり、そして自身で描いた漫画をとある人物に見せていたのです。

 

それが当時、近所に住んでいた日本の漫画家・アニメ原作者でもある吉田竜夫さんなんです。

 

ハクション大魔王やマッハGoGoGoを知っている人は多いかと思います。

 

もし漫画を描き続けていたら漫画家としての才能を開花させていたのかもしれませんね。

 

ちなみに小学生時代の音楽の成績は良くなかったそうです。

 

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忌野清志郎の学歴~出身中学校の詳細

 

出身中学校:東京都  国分寺市立第三中学校 偏差値なし

 

 

忌野清志郎さんの出身中学校は、国分寺市内の公立校の第三中学校です。

 

中学時代は山岳部に所属するのほどのアウトドア派な少年でした。

 

ライブなどで見せる力強いパフォーマンスや、50歳を過ぎてからツーリングで東京から鹿児島間1500kmを10日間で完走するそのスタミナは学生時代の時に培ったものなのかもしれません。

 

アメリカのインストゥルメンタル・バンド「ベンチャーズ」によってエレキブームが到来することになる。中学生だった忌野さんは小林和生さんと共にベンチャーズのカバーバンド「No Name」を結成します。

 

当時、エレキギターを購入する余裕がなかった為フォークギターを持ち歩いていたそうです。

 

その後同級生だった破廉ケンチさんをメンバーに加えロックバンド「ザ・クローバー」を結成します。

 

音楽を聴いては、自分の耳で旋律を探し演奏をしていたそうです。

 

中学時代から音楽に対して熱心に取り組んでいたようです。

 

しかし残念なことに高校進学と共にザ・クローバーは自然消滅してしまいます。

 

後に忌野さんは「RCサクセション」というバンド名でデビューすることになりますが、このRCとはThe Remainders of Cloverの略、つまりクローバーの残り物という意味を込めたバンド名なのです。

 

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忌野清志郎の学歴~出身高校・大学の詳細

 

出身高校:東京都 日野高校 偏差値52(普通)

 

 

忌野清志郎さんの出身高校は、都立の共学校の日野高校です。

 

高校時代は俳優の三浦友和さんと同級生でした。

 

実は高校時代、不良という訳ではなかったようですが学校に全く馴染めていませんでした。

 

常に単位を数えては「あと何日休めるか」を計算しながら可能な限りサボっていました。

 

この当時から音楽活動をはじめていたため、そちらに熱中していたのだといいます。

 

そんな生活態度に加え、小柄でマッシュルームカット、おまけに物静かな生徒だったようで逆に目立っていたのだとか。

 

 

RCサクセションの楽曲の「トランジスタ・ラジオ」の冒頭の「授業をサボって屋上で寝転びタバコを吸う」という内容の歌詞があり、これは忌野さん本人の実体験を基にしています。

 

高校時代に本格的にギターのプロを目指したいという意思を親に伝えたところ、母親はそれが大きな悩みのタネだったそうです。

 

そのため朝日新聞の「お悩み相談」へ相談し、なんとその内容が記事として取り上げられたことがあります。

 

そして、その相談に答えたのが教育評論家 羽仁説子さんだったのです。

 

回答は「干渉過剰は逆効果、しばらく努力させてみては」でした。

 

 

この当時学校へは行かず音楽ばかりやっている姿を毎日見ていた母親からして見たら相当な不安だったかもしれませんね。

 

結果的にこの回答が、日本のロック界を牽引する忌野清志郎を誕生させたのです。

 

以降は音楽活動に集中して高校2年生の時に、RCサクセションを結成しています。

 

さらに高校3年生の時には東芝カレッジ・ポップス・コンテストで入賞を果たします。

 

その後、偶然ライブを見に来ていた大手芸能プロダクションの社長さんからスカウトを受けます。

 

当時は美大へ進むことを考えていましたが、音楽を続けていく意思を固めます。

 

【主な卒業生】

渡部建(アンジャッシュ)

児嶋一哉(アンジャッシュ)

 

大学には進学していない

 

そして高校を卒業した年の1970年に、RCサクセションは「宝くじは買わない」でレコードデビューをします。

 

 

忌野さんはとても早いデビューだったため、お世辞にもヒットしたとは言えなかったもののレコードを出せたことに大きく喜んでいたそうです。

 

 

ちなみに高校の同級生だった三浦友和さんは当初はミュージシャン志望だったことから、RCサクセションのデビュー直後はサポートメンバーとして参加しておりパーカッションを担当しています。

 

バンドは1972年に「ぼくの好きな先生」がヒットしますが、その後に低迷しています。

 

しかし1980年の「雨上がりの夜空に」で再注目されて、1980代には人気バンドの仲間入りを果たしています。

 

 

忌野さんは単独でも1982年に坂本龍一さんとのコラボで「い・け・な・いルージュマジック」をヒットさせています。

 

以降も「デイドリームビリーバー」などの数々の名曲をリリースしてロックのカリスマになっています。

 

以上が忌野清志郎さんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。

 

生前はかなりの熱狂的なファンに支持されていましたが、2009年に58歳の若さでガンのため亡くなっています。

 

 

とは言えその楽曲は世代を超えて語り継がれています。

 

今後も多くの人々の胸に響くはずです。

 

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