女優の萬田久子さんの出身高校や大学の偏差値などの学歴情報をお送りいたします。実は萬田さんは高校時代は太っており、ダイエットして1年間で体重を20㎏も落としていました。学生時代のエピソードや情報、若い頃のかわいい画像なども併せてご紹介いたします
萬田久子(まんだ ひさこ)
1958年4月13日生
身長167㎝
血液型はB型
大阪府出身の女優、タレント
本名は万田久子(よみ同じ)
以下では萬田久子さんの出身高校や大学の偏差値、学生時代のエピソードなどをご紹介します
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萬田久子の学歴まとめ
出身大学:帝塚山短期大学 英米文芸専攻
出身高校:大阪府立港高校
出身中学校:大阪市立大正中央中学校
出身小学校:大阪市立泉尾東小学校
萬田久子の学歴~出身小学校(大阪市立泉尾東小学校)の詳細
出身小学校:大阪府 大阪市立泉尾東小学校
萬田久子さんの出身小学校は、地元大阪市内の公立校の泉尾東小学校です。
家族構成は両親と弟の4人家族のようです。
父親は会社員で、母親は洋裁の仕事をして家計を支えていました。
ちなみに萬田さんの母親は8頭身の評判の美人でした。
また非常におしゃれだったことから、その影響で萬田さんも早くからファッションに興味を持ったそうです。
萬田さんは子供の頃から体が丈夫で、幼稚園時代には大阪市の健康優良児に選ばれています。
また小学校時代の成績は非常によく、ほとんどがオール5でした。
当時から勉強だけではなく、スポーツも得意な文武両道の児童でした。
小学校時代は学級委員を何度も務めるなど、模範的な児童だったようです。
萬田久子の学歴~出身中学校(大阪市立大正中央中学校)の詳細
出身中学校:大阪府 大阪市立大正中央中学校 偏差値なし
萬田久子さんの出身中学校は、地元大阪市内の公立校の大正中央中学校です。
中学時代は体操部に在籍していましたが、半年で退部しています。
当時の萬田さんは柔軟性はありましたが、腕力がなかったことから技を身に着けることができなかったので体操はやめています。
ちなみにこの中学校の体操部の2年先輩にはロサンゼルス・オリンピックの体操金メダリストの具志堅幸司さんも在籍しており、萬田さんは具志堅さんから直接指導を受けたことがあります。
中学時代は理数系の科目が得意でした。
【主な卒業生】
中田ボタン(漫才師)
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萬田久子の学歴~出身高校(港高校)の詳細
出身高校:大阪府 港高校 偏差値47(やや容易)
萬田久子さんの出身高校は、府立の共学校の港高校です。
この高校は1911年開校の中堅府立高校です。
萬田さんは高校時代はテニス部に在籍して、部活動に打ち込んでいました。
当時は高校野球観戦も好きで、後に巨人の監督になる原辰徳さんの大ファンでした。
原さんが甲子園に出場した際には、宿舎の旅館に手作りのシュークリームを差し入れています。
萬田さんは現在の抜群のプロポーションからは信じられませんが、高校時代はMAX65kgの立派な体格でした。
男子生徒から「女子プロレスに行けば」と言われたことがきっかけで、一念発起してダイエットをはじめています。
するとわずか1年間で20kgも体重を落としています。
その際にはランニングに縄跳びを1000回課題にして、キャベツを中心にした食事でダイエットを成功させています。
また萬田さんの当時の夢はフライトアテンダントか美容部員になることでした。
高校3年生の時にフライトアテンダントになるために全日空の入社試験を受けていますが、英語が苦手で不合格になっています。
加えて萬田さんの母親が洋裁が得意だったことから、高校時代まで私服は母親が作っていました。
【主な卒業生】
岡田圭右(お笑い・ますだおかだ)
島村洋子(作家)
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萬田久子の学歴~出身大学(帝塚山短期大学)の詳細
出身大学:帝塚山短期大学 英米文芸専攻 偏差値50程度(当時)
※現在は廃校
萬田久子さんは高校卒業後は、帝塚山(てづかやま)短期大学に進学します。
同大は2004年に帝塚山大学への改組のために募集を停止し、2005年に廃校となっています。
また当時はフライトアテンダントになりたかったので、短大では英語を勉強しています。
萬田さんは同大の1年生だった1978年にミス・ユニバース日本代表に選ばれて、世界大会にも出場しています。
ちなみに萬田さんがこのコンテストに出演したのは、ミスユニバースに思い入れが深い叔母が勝手に写真を送ったからでした。
またその後に再び写真を送るように言われましたが、あまりやる気がなかったのか学生証を送っています。
それでもグランプリを獲得しているので、やはり当時の萬田さんはかなり光るものがあったのでしょう。
ただしこのコンテストの2か月後に、父親が突然倒れて亡くなってしまっています。
そしてメキシコのアカプルコでおこなわれた世界大会は、連日連夜パーティーが開催されていたことをインタビューで話しています。
「お金持ちの家に招かれたりして、パーティーも連日連夜。世界各国から女性が来ているからお嫁さん探しの意味もあったのかも」
記事引用:TVerプラス
またその際にはルームメイトだったミス・シンガポールとはしょっちゅうケンカしていました。
なお世界大会の審査員にはデヴィ夫人がおり、萬田さんは「マリーアントワネットについてどう思いますか」と質問されて「ものすごく美しい女性でした」と答えています。
世界大会では入賞などはできませんでしたが、これがきっかけで芸能事務所にスカウトされています。
(成人式の画像)
加えて当時の萬田さんは就職先が決まっていましたが、進路変更をしています。
ただし芸能界に進むことを決めるまでは、かなり悩んでいます。
短大卒業後に上京して本格的に芸能活動を開始していますが、当時は仕事があまりなかったことをインタビューで話しています。
またその頃はよくホステスにスカウトされたそうです。
とは言えレッスンを重ねていくうちに徐々にオーディションに合格するようになり、22歳だった1980年にはNHKの朝ドラ「なっちゃんの写真館」に出演しています。
このドラマではヒロインの星野知子さんの友達役という重要な役での出演だったので、女優としても大きな注目を集めました。
そのため翌年にはファーストシングル「愛のオーロラ」で歌手デビューもしています。
ただしセールス的に苦戦したことから、歌手としての活動はこの年のみです。
加えて萬田さんはこの頃が人生最大のモテキで、「物は捨てられないけど、男は捨てられる」と豪語していたことをインタビューで明らかにしています。
以降は数々のテレビドラマや映画に起用される人気女優になっています。
また若い頃はたびたび週刊誌でグラビアも披露していました。
ちなみに萬田さんのヘアメイクは若い頃から、IKKOさんが担当しています。
その他にも当時からバラエティ番組への出演が多く、タレントとしても高い人気を誇っていました。
以降も数え切れないほどのテレビドラマや映画に出演しており、タレントとしてもバラエティー番組などで活躍しています。
以上が萬田久子さんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。
短大卒業後に本格的に芸能活動を開始していますが、すぐに人気女優になっています。
その後は女優やタレントとして、数々のメディアに出演してきました。
未だに衰えぬ美貌とプロポーションは健在で根強い人気を誇っており、末永い活躍を期待したいところです。
経歴/プロフィールの詳細
1978年にミス・ユニバース日本代表に選ばれる。
1980年の朝ドラ「なっちゃんの写真館」で、ヒロイン(星野知子)の友人役で女優デビュー。
1981年の「帰ってきた若大将」で映画初出演し、「夏の別れ」の大胆なヌードシーンで注目される。
同年に「愛のオーロラ」で歌手デビューをしており、シングルとアルバムを1枚ずつリリースしている。
以降も多くの作品に出演し、テレビドラマの代表作は「京都殺人案内シリーズ」や「ぴあの」、「八丁堀の七人」など。
当初からタレントとしてバラエティー番組やクイズ番組への出演も多く、「クイズ!ひらめきパスワード」や「笑っていいとも!」などにレギュラー出演していた。
私生活では1987年に実業家と不倫の末に一児をもうけ事実婚状態を続けたが、2011年8月にパートナーが死去している。
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