北島三郎の学歴と経歴|出身は函館西高校!大学や中学校の偏差値と若い頃のかっこいい画像

 

演歌歌手の北島三郎さんの出身高校の偏差値などの学歴情報をお送りいたします。「函館の女」や「まつり」などのヒット曲でお馴染みの北島さんですが、どのような学生生活を送っていたのでしょうか? 学生時代のエピソードや情報、若い頃のかっこいい画像なども併せてご紹介いたします

 

北島三郎(きたじま さぶろう)

 

 

1936年10月4日生

身長161㎝

血液型はO型

 

北海道知内村(現在は知内町)出身の歌手、俳優、作詞家

本名は大野穣(おおの みのる)、別名義は「原譲二」、愛称は「サブちゃん」

 

以下では北島三郎さんの出身校の偏差値や学生時代のエピソードなどをご紹介いたします

 

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目次

北島三郎の学歴まとめ

 

出身専門学校:声楽専門音楽学校(中退)

出身高校:北海道立函館西高校

出身中学校:知内村立知内中学校

出身小学校:知内村立知内小学校

 

北島三郎の学歴~出身小学校(知内村立知内小学校)の詳細

 

出身小学校:北海道 知内村立知内小学校

※現在は知内町立知内小学校

 

 

 

北島三郎さんの出身小学校は、地元知内村内の公立校・知内村立知内小学校です。

 

家族構成は両親と7人きょうだいの9人家族でした(5男2女の長男)。

 

(北島さんは手前右)

 

父親は漁師でした。

 

北島さんは父親の仕事を手伝っており、当時のことについてインタビューでは次のように話していました。

 

「おやじもおふくろもじいちゃんもばあちゃんもいて、いろんなことをさせられました。イカさきからイカを干すのも、イカをのすのもやった。それから田植えもやった。田んぼの草取りもやった。」

 

また祖父も「孫が歌が上手い」と褒めてくれたことで漁師を継ぐのではなく、どこか歌える場所に行けたらいいなと子供の頃から思っていました。

 

 

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北島三郎の学歴~出身中学校(知内村立知内中学校)の詳細

 

出身中学校:北海道 知内村立知内中学校 偏差値なし

※現在は知内町立知内中学校

 

 

 

北島三郎さんの出身中学校は、地元北海道知内(しりうち)村内の公立校・知内村立知内中学校です。

 

北島さんは中学生の頃から流行歌が好きになりました。

 

中学時代には商船学校に進学をして、船乗りになりたいと思っていた時期もありました。

 

北島さんは中学時代の成績が優秀だったことから、担任の先生からは高校への進学を勧められています。

 

ただし家が貧しかったことから、中学卒業後の進路に迷っています。

 

それでも父親が「学費のことなんぞ心配しなくていいからな」と背中を押してくれたので、後記の高校に進学しています。

 

【主な卒業生】

松前ひろ子(演歌歌手)

 

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北島三郎の学歴~出身高校(道立函館西高校)・大学の詳細

 

出身高校:北海道 函館西高校 偏差値50(現在・普通)

 

 

 

北島三郎さんが入学したのは、道立の共学校の函館西高校です。

 

この高校は1905年開校の伝統校で、古くから自由な校風で知られています。

 

北島さんは高校時代はラグビー部に在籍して、部活動に打ち込んでいました。

 

朝練のために4時に起きて片道3時間ほどかけて汽車通学をしていたため、母親は朝3時に起きてお弁当を2つ作ってくれていたとのことです。

 

 

北島さんは高校生の頃には向こうっ気が強く、よく喧嘩をしていました。

 

時期は不明ですが、学生時代にボクシングもやっていたようです。

 

また学校をさぼって岡晴夫さんや田端義夫さん、三浦洸一さんなどのリサイタルに行くこともあったようです。

 

高校2年生の頃には友人から「のど自慢」に出るように言われて、申し込みまでおこなってくれていました。

 

残念ながら結果は鐘2つでしたが、当時司会を務めていた宮田輝さんは「いい声だったよ、惜しかったね」と褒めてくれました。

 

北島さんはこの時に褒められたため、もしかしたら歌手になれるのではないかという気持ちが湧いてきたといいます。

 

高校卒業間近には「俺は知内にいないで東京へ行こう」と歌手を目指して東京に行くことを決めていました。

 

そして父親に歌手を目指していることなどは言わずに、「高校も卒業だし、東京へ1週間ほど遊びに行ってきていいかい」と頼むと承諾をしてくれました。

 

そこで北島さんは東京に行き、声楽専門音楽学校という音楽学校の試験を受けて1週間後に合格となっています。

 

合格証を持って両親のところに「歌手を目指して東京に行きたい」と話したところ、北島さんは長男でもあったため反対をされています。

 

父親からは「お前が東京へ行ったらうちを誰が継ぐようになるんだ」と言われました。

 

そこで北島さんはもし歌手になれなかったとしても東京の音楽学校を卒業すれば、中学校の音楽の先生になれる資格を得ることができると嘘をつきました。

 

父親からは承諾を得ることができましたが、北島さんが出発をするときには母親は玄関先で泣き崩れていました。

 

【主な卒業生】

辻仁成(作家)

佐藤泰志(作家)

 

北島さんは東京の声楽専門音楽学校(偏差値なし)に進学をしています。

          

ちなみにこの専門学校は後に昭和音楽芸術学院に改称していますが、2007年に閉校しています。

 

この学校には1年9ヶ月間通っていました。

 

この学校ではクラシックの勉強をしていましたが、発声法の勉強をしたことは財産になったと語っています。

 

北島さんは生活が苦しかったことから、新聞広告の歌手募集の欄を見て応募をしました。

 

 

合格をしましたが夜の裏町の流しということを知り、生活のために流し生活を送っていました。

 

音楽学校はクラシックの基礎練習ばかりで、クラシックをやるつもりがなかった北島さんは中退をしているようです。

 

そして25歳だった1965年6月に、ファーストシングル「ブンガチャ節」で演歌歌手としてデビューしています。

 

 

するとセカンドシングル「なみだ船」がミリオンヒットになって、人気演歌歌手の仲間入りを果たしています。

 

 

以降も「函館の女」や「与作」、「まつり」などのヒット曲を多数リリースしています。

 

 

NHK紅白歌合戦には1963年から2013年まで50回連続で出場しています。

 

また馬主としても知られており、愛馬キタサンブラックがGⅠレースで勝利した際には競馬場で「まつり」を熱唱しています。

 

 

もはや説明不要の大物演歌歌手なので、今後の活動にも注目ですね。

 

以上が北島三郎さんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。

 

演歌歌手としてデビュー後は数多くのヒット曲をリリースして、国内でも有数の人気演歌歌手になっています。

 

 

また山本譲二さんや小金沢昇司さん、北山たけしさん、大江裕さんらの弟子を人気演歌歌手に育て上げたことでも知られています。

 

今後のさらなる活躍にも期待が高まります。

 

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