歌手でタレントの美川憲一さんの出身高校の偏差値などの学歴情報をお送りいたします。実は美川さんは複雑な家庭に育っており、実の母親と養母を養うために芸能界入りしていました。学生時代のエピソードや情報、若い頃の画像なども併せてご紹介いたします
美川憲一(みかわ けんいち)
1946年5月15日生
身長173㎝
血液型はA型
長野県諏訪市出身の歌手、タレント
本名は百瀬由一(ももせ よしかず)
以下では美川憲一さんの出身校の偏差値や学生時代のエピソードなどをご紹介いたします
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美川憲一の学歴まとめ
出身大学:進学せず
出身高校:正則高校(中退)
出身中学校:港区立愛宕中学校
出身小学校:港区立南桜小学校
美川憲一の学歴~出身小学校(港区立南桜小学校)の詳細
出身小学校:東京都 港区立南桜小学校
※現在は閉校
美川憲一さんの出身小学校は、港区内の公立校・港区立南桜小学校です。
美川さんは複雑な生い立ちで、2歳の時に母親の姉夫婦に引き取られて育っています。
美川さんの産みの母親は当時交際していた人との間に美川さんを妊娠した後に妻子がいることを知り、非常にショックを受けています。
このことについて美川さんは次のように話していました。
「母はショックで体調を崩して、私を育てられなくなったの。泣く泣く東京に住む姉に私を託したのよ」
また美川さんを妊娠したことを知った交際相手は流産を促す劇薬をビタミン剤だと偽り、母親に飲ませようとしていたそうです。
養父は書道家で厳格な人でしたが、孫ほど年が離れていたことから美川さんは非常に可愛がられたそうです。
しかし小学5年生の時に養父は病気で亡くなっています。
幼稚園の頃からバイオリンを習っていました。
小学生の時には隣の家に住んでいた女子の純子ちゃんに初恋をしています。
また全国絵画コンクールで金賞を受賞しました。
美川さんは「美」に目覚めたきっかけについてインタビューでは次のように振り返っています。
「育ての母が料亭に勤めてて、私はお帳場で待ってたの。きれいな芸者さんが出入りして、そのころから美に対する意識が芽生えたの。『坊や、これ、おひねりね』とお小遣いをくれて、それが結構たまるの。目ざとい子だったのよ(笑い)」
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美川憲一の学歴~出身中学校(港区立愛宕中学校)の詳細
出身中学校:東京都 港区立愛宕中学校 偏差値なし
※現在は港区立御成門中学校
美川憲一さんの出身中学校は、港区内の公立校・港区立愛宕中学校です。
この中学校は1969年に北芝中学校と統合されて、港区立御成門中学校になっています。
美川さんは中学時代は日舞を習っていました。
また美川さんは中学生の時に育ての母親が実の母親ではないことを知っており、当時のことについて次のように話しています。
「意地の悪いおせっかいっているのよ。中学生のとき、近所の人が私に『坊や、あなたの本当のお母さんは、おばちゃんのほうなのよ』と耳打ちしたの。驚きはしたけれど、腑に落ちた感じ。ああそうかって」
記事引用:OTONA SALONE
しかし養母にこのことを尋ねることはしなかったといいます。
美川さんは中学2年生の時に女子生徒から憧れの存在だったブラスバンド部の上級生の男子と交際をしていました。
その彼とはお寺のベンチに座り、手を繋ぎながら一緒に月を見たそうです。
また中学生の頃の修学旅行の時に何人もの同級生の男子から「一緒に寝よう」と誘われており、美川さんは男子からモテていたようです。
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美川憲一の学歴~出身高校(正則高校)の詳細
出身高校:東京都 正則高校(中退) 偏差値51(現在・普通)
美川憲一さんが入学したのは、私立の男子校(当時)の正則高校です。
この高校は1889年開校の伝統校で、部活動が盛んなことで知られています。
また美川さんが在籍した当時は男子校でしたが、2000年に男女共学化されています。
前記のように養父が亡くなったことで生活が困窮したことから、実の母親と養母を食べさせることを決意して高校1年生のときに中退をしています。
【主な卒業生】
吉田茂(元内閣総理大臣)
森田健作(タレント)
桑野信義(タレント)
美川さんは高校中退後は、養成所である東宝芸能学校に入りました。
美川さんは養成所の費用も自分で稼いで通っており、このことについてインタビューでは次のように振り返っています。
「芸能学校もレッスン代も自分で稼いだわよ。喫茶店や清掃員なんかで。でも作業着が似合わなくてね、嫌だった。ビルの窓ふきは今みたいにクレーンもないからロープでつるされて、冬は手がしもやけでボロボロ。こんな手で芸能界はできないと思ったわ。」
また当初は役者を志していましたが、プロダクションから声がかかったことから歌手に転向をしました。
そして19歳だった1965年に歌手デビューをしています。
翌年には出世作となった「柳ヶ瀬ブルース」が120万枚の大ヒットをして、人気歌手の仲間入りを果たしました。
さらに1971年には、自身の代表曲になる「さそり座の女」もヒットしています。
ところがその後は2度にわたる大麻での逮捕でどん底を経験しています。
美川さんは人生最大の汚点だと語っており、当時は落ちるところまで落ちて這い上がるしかないと思ったことを明かしています。
一時は芸名を「美川けん一」に改名したこともありましたが、低迷期は長らく続きます。
当時はテレビ出演が激減して、スナックや温泉などの営業がメインになっています。
それでも1980年代後半にタレントのコロッケさんの美川さんのモノマネがウケると、1990年にはじまったテレビアニメ「ちびまる子ちゃん」でもたびたび取り上げられて、美川さん自身にも再びスポットライトが当たります。
また1990年に出演した「金鳥」のCMも話題になりました。
すると45歳だった1991年に、NHK紅白歌合戦に17年ぶりに出場しています。
以降も紅白歌合戦には18年連続で出場して、小林幸子さんとの衣装合戦が名物になっています。
また同時期にタレントとしての活動を開始すると、「オネエキャラ」や毒舌ぶりがウケて数々のバラエティ番組に起用されることになります。
2021年にはYOUTUBEに公式チャンネルを開設しています。
こちらでは数々の企画ものの動画が人気になっています。
以上が美川憲一さんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。
1990年代前半に再起後は、歌手やタレントとして高い人気を誇っています。
既に年齢は70代に突入していますが、現在でも数々のメディアに出演しています。
末永い活躍を期待したいところです。
経歴/プロフィールの詳細
1964年に大映ニューフェイスの合格。
1965年に1STシングル「だけどだけどだけど」で歌手デビュー。
1966年に3RDシングル「柳ヶ瀬ブルース」がミリオンセラーとなって、人気歌手の仲間入り。
1968年に「釧路の女」でNHK紅白歌合戦に初出場。
以降も「おんなの朝」や「さそり座の女」などの楽曲がヒット。
1977年と1984年に大麻取締法違反で逮捕され、メディアへの露出が激減する。
1980年代後半にコロッケによるモノマネがウケて、復活の兆しとなる。
1990年の金鳥のCMが話題になって、翌年の紅白歌合戦に17年ぶりに出場。
タレントとしても毒舌がウケて再ブレイクを果たし、以降は数多くのバラエティー番組に出演。
紅白歌合戦でも小林幸子との衣装対決が毎年話題になった。
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