橋本聖子の学歴と経歴|出身は駒沢大学附属苫小牧高校!大学や中学校の偏差値|生死の境をさまよっていた

 

政治家の橋本聖子さんの出身高校の偏差値などの学歴情報をお送りいたします。長らくスピードスケートで活躍してきた橋本さんですが、実は高校時代に生死の境をさまよった経験がありました。学生時代のエピソードや情報、若い頃の画像なども併せてご紹介いたします

 

橋本聖子(はしもと せいこ)

 

 

1964年10月5日生

身長156㎝

血液型はB型

 

北海道早来町(現在は安平町)出身の政治家、元スケート選手

自由民主党所属

 

以下では橋本聖子さんの出身校の偏差値や学生時代のエピソードなどをご紹介いたします

 

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目次

橋本聖子の学歴まとめ

 

出身大学:進学せず

出身高校:駒沢大学附属苫小牧高校

出身中学校:早来町立早来中学校

出身小学校:早来町立早来小学校

 

橋本聖子の学歴~出身小学校(早来町立早来小学校)の詳細

 

出身小学校:北海道 早来町立早来小学校

※現在は安平町立早来小学校

 

 

 

橋本聖子さんの出身小学校は、地元早来町内の公立校の早来小学校です。

 

家族構成は両親と4人きょうだいの6人家族です(4人きょうだいの末っ子)。

 

実家は早来町内で「マルゼン橋本牧場」を経営しており、競走馬や乳牛を生産していました。

 

なお競走馬や種牡馬として活躍した名馬マルゼンスキーは実家で生産して、父親がオーナーでした。

 

(左から2番目が父親の善吉さん)

 

橋本さんは1964年の東京オリンピックの直前に生まれたので、「聖火」にちなんで聖子と名づけられています。

 

父親の善吉さんは非常に厳しくしつけており、子供の頃から毎朝両親には三つ指をついて挨拶をしています。

 

橋本さんは小学校2年生の時に見た、札幌オリンピックの日本ジャンプ陣の活躍でオリンピックを目指したとインタビューで話しています。

 

すぐに地元のスケート少年団に入団してスケートをはじめています。

 

また実家の馬で乗馬もはじめて、足腰を鍛えています。

 

ところが小学校3年生の終わりに腎臓病を患って2か月間入院。

 

退院後も療養生活は2年間に及んで、スケートどころから体育の授業さえも禁止されていまします。

 

後記のように競技に復帰できたのは中学2年生の頃でした。

 

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橋本聖子の学歴~出身中学校(早来町立早来中学校)の詳細

 

出身中学校:北海道 早来町立早来中学校 偏差値なし

※現在は安平町立早来中学校

 

 

 

橋本聖子さんの出身中学校は、地元北海道早来町の早来(はやきた)中学校です。

 

橋本さんは小学校時代に腎臓病を患って、満足に練習もできませんでした。

 

ようやく本格的に練習できるようになったのが、中学2年生の時からです。

 

この頃から苫小牧市内のコーチの自宅に下宿して、スケート競技に励んでいます。

 

ただしその後も転校などをすることなく、この中学校を卒業したようです。

 

競技を再開するとすぐに頭角を現して、中学3年生の時には早くも全日本選手権を初制覇しています。

 

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橋本聖子の学歴~出身高校(駒沢大学附属苫小牧高校)・大学の詳細

 

出身高校:北海道 駒沢大学附属苫小牧高校 偏差値42(容易)

 

 

 

橋本聖子さんの出身高校は、私立の共学校の駒沢大学附属苫小牧高校です。

 

この高校は1964年開校の駒沢大学系列の私立高校で、部活動が盛んなことで知られています。

 

アイスホッケー部やスケート部、硬式野球部などが強豪ですが、2004年に硬式野球部が夏の甲子園に優勝して大きな話題になっています。

 

なお現在の同校は特進コース(偏差値65)を設置していますが、橋本さんが在籍した当時は設置されていませんでした。

 

後述するように橋本さんは中学時代にスピードスケートで活躍したので、スケートの強豪校のこの高校に進学しています。

 

そのため高校時代もスケート部に入部して競技に打ち込んでいます。

 

自宅のあった早来町(現在は安平町)から高校のある苫小牧市までは通学することも可能でしたが、練習時間を確保するために高校時代は苫小牧市内のコーチの自宅に下宿しています。

 

高校1年生だった1980年には既に国内の同世代に敵はなく、世界ジュニア選手権の日本代表メンバーに選ばれています。

 

また高校2年生の時には全日本スプリントや全日本選手権で優勝するほどでした。

 

このように当時から将来のオリンピック候補と期待されていましたが、高校3年生だった1982年の秋に持病であった腎臓病が再発して入院を余儀なくされています。

 

さらに悪いことにストレス性呼吸筋不全症を発症して自力で呼吸できなくなったばかりか、入院先の病院でB型肝炎にも感染してしまいます。

 

そのため1週間にわたり生死の境をさまよっています。

 

何とか一命は取り留めていますが、その際には医者からスポーツをやめるようにも言われています。

 

なお橋本さんは病気の影響で現在でも深呼吸ができません。

 

またリハビリから復帰までの間については、公式HPに次のように綴っています。

 

「精神的にも追い込まれていたが、体の不自由な子供たちとの出会いが悪循環を断ち切るきっかけになった。リハビリを通しての交流の中で自分の病気はもう治らないということを受け入れることができたのだ。そうすると心が軽くなって治療も進み、奇跡的に選手として復帰できた」

記事引用:橋本聖子オフィシャルサイト

 

競技に復帰すると、高校3年生の終わりの全日本選手権では4種目完全制覇を成し遂げています。

 

【主な卒業生】

田中将大(プロ野球選手)

八木将康(劇団EXILE)

 

大学には進学していない

 

そして橋本聖子さんは高校卒業後は大学などに進学せずに、実業団の富士急に入社して競技を続けます。

 

 

19歳だった1984年2月のサラエボオリンピックでは、全種目の4種目に出場していますがいずれも8位以内に入賞できませんでした。

 

1988年のカルガリーオリンピックでは、全5種目に出場してすべてで入賞しています。(最高は500mと1000mの5位)

 

そして27歳で臨んだ1992年のアルベールビルオリンピックでは、1500mで3位になり悲願のメダルを獲得しています。

 

 

当時は日本人女子選手の冬季オリンピック初のメダル獲得の快挙でした。

 

 

なお橋本さんは自転車競技でも、1992年のバルセロナオリンピックと1996年のアトランタオリンピックにも出場しています。

 

 

またスケート競技で1994年のリレハンメルオリンピックにも出場していますが、3000mの6位が最高でした。

 

そして政治家として1995年に自由民主党から参議院議員選挙に出馬して、初当選をしています。

 

以降も党内の要職を歴任して、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)や東京オリンピック・パラリンピック担当大臣なども務めています。

 

 

今後の活躍にも期待ですね。

 

以上が橋本聖子さんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。

 

長らく日本女子スピードスケート界の第一人者として君臨していますが、その道のりは決して平たんではなく病気によって生死の境をさまよったことさえあります。

 

 

それでも強靭な精神力で克服して、オリンピックのメダルも獲得しています。

 

政治家に転身後も着実にキャリアを重ね、入閣も経験しています。

 

 

今後のさらなる活躍にも期待が高まります。

 

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