舛添要一の学歴|出身大学高校や中学校の偏差値|インターハイに出場していた!

 

タレントで国際政治学者の舛添要一さんの出身高校や大学の偏差値などの学歴情報をお送りいたします。実は舛添さんはスポーツも得意で、高校時代にインターハイに出場した経験もありました。学生時代のエピソードや情報、若い頃の画像なども併せてご紹介いたします

 

舛添要一(ますぞえ よういち)

 

 

1948年11月29日生

身長169㎝

血液型はO型

 

福岡県八幡市(現在は北九州市)出身のタレント、国際政治学者、元政治家

 

以下では舛添要一さんの出身高校や大学の偏差値、学生時代のエピソードなどをご紹介いたします

 

目次

舛添要一の学歴~出身大学の詳細

 

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出身大学:東京大学 法学部 偏差値72(超難関)

 

 

 

舛添要一さんは高校卒業後は、東京大学に進学しています。

 

在籍したのは法学部で、この大学の法学部は京都大学法学部と並び国内の文系の学部の最高峰に位置します。

 

舛添さんはこの大学に現役で合格しており、相当の学力を有していました。

 

同大学の法学部では、法務大臣などを務めた鳩山邦夫さんと同級生でした。

 

 

法学部では政治コースを選択しており、自身のブログには当時のことについて次のように綴っています。

 

「法学部には、私法、公法、政治学の三分野があったが、私は政治学コースを選らんだ。それは、政治について興味があり、六法全書と格闘して法律学に取り組むよりこ面白いと思ったのである。それに、やはりヒトラーについての研究を続けたかったのだと思う。」

 

またゼミは岡義達教授の政治学と篠原一教授のヨーロッパ政治史に参加していました。

 

舛添さんは大学卒業後も研究者の道に進みたいと思っていましたが、それには大学院に進学をする方法とすぐに助手として採用される方法がありました。

 

すぐに助手として採用される道は条件が厳しく成績優秀でなければいけませんでした。

 

舛添さんはさほど成績は優秀ではありませんでしたが、政治学の場合には論文を提出するという条件もあったことから、論文のおかげで助手の道が開かれました。

 

舛添さんは大学卒業後は同大学法学部の助手として学者の道に進みましたが、1973年にフランスに渡りパリ大学やジュネーブ高等国際政治研究所に客員研究員として5年間留学をしています。

 

 

そして1979年に帰国後は東京大学の教養学部准教授となりました。

 

 

1986年に当時大蔵省の高級官僚だった片山さつきさんと結婚していますが、3年間で離婚しています。

 

1989年に東京大学を退官すると、同時期からタレント活動をはじめて「朝まで生テレビ」などに出演しています。

 

 

また「ビートたけしのTVタックル」に出演して、当時法政大学の教授だった田嶋陽子さんとのバトルが話題になって知名度が上昇します。

 

51歳だった1999年に政治家に転身して、この年の東京都知事選挙に出馬しますが石原慎太郎さんに敗れています。

 

その後は参議院議員を経て、2014年の東京都知事選挙に当選しています。

 

 

ただし任期途中の2016年に、公私混同報道がなされて東京都知事を辞職しています。

 

 

以降は政治家を引退して、再びタレント活動を開始しています。

 

2020年にはYOUTUBEに公式チャンネル「舛添要一、世界と日本を語る」を開設しています。

 

 

こちらでは数々の社会問題などに持論を展開しています。

 

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舛添要一の学歴~出身高校の詳細・インターハイに出場していた!

 

出身高校:福岡県 八幡高校 普通科 偏差値62(現在・やや難関)

 

 

 

舛添要一さんの出身高校は、県立の共学校の八幡(やはた)高校です。

 

この高校は1919年開校の県立校で、地元では古くから進学校として知られています。

 

また現在の同校は普通科のほか理数科(偏差値65)も設置していますが、舛添さんが在籍した当時は普通科のみの設置でした。

 

高校時代は陸上部に在籍をしており、部活動に打ち込んでいました。

 

陸上部では短距離選手としてインターハイにも出場経験があります。

 

当時のことについてインタビューで次のように話しています。

 

「私は高校時代、100メートル11秒台で走っていて、インターハイにも出たことがあるんです。その頃は筋肉がどうのなんて、まったく考えたことがありませんでした。普通に走っていれば、鍛えられましたからね。」

 

舛添さんは意外にも高校時代までは大人しい性格でした。

 

高校時代の恩師の柴田文寿さんは当時の舛添さんのことについて次のように語っています。

 

「丸坊主で、井戸水を飲みながら日が暮れるまでグラウンドを走っていました。負けん気が強く、ラグビー部の試合に“助っ人”として出てもらったこともあります。成績はとにかく優秀。1学年600人いましたが、3年間トップだったと思います。女子生徒からの人気も凄くて、いろいろ恋愛相談にも乗りました(笑)」

 

【主な卒業生】

菅本裕子(元HKT48・中退)

 

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舛添要一の学歴~出身中学校の詳細

 

出身中学校:福岡県 八幡市立大蔵中学校 偏差値なし

※現在は北九州市立大蔵中学校

 

 

 

舛添要一さんの出身中学校は、地元福岡県八幡市(現在は北九州市)内の公立校の八幡市立大蔵中学校です。

 

中学時代も陸上部に在籍していました。

 

中学2年生の時に青果店を営んでいた父親が亡くなっており、以降はかなりの貧困生活を送っています。

 

母親と姉たちとともに勉強部屋もない小屋に住み、夜遅くまで野菜のリヤカーを引いて売る生活を送っていました。

 

ただし舛添さんは当時から勉強ができて、学校の成績は優秀でした。

 

舛添要一の学歴~出身小学校の詳細

 

 

出身小学校:福岡県 八幡市立祝町小学校

※現在は北九州市立祝町小学校

 

 

 

舛添要一さんの出身小学校は、地元八幡市内の公立校の八幡市立祝町小学校です。

 

家族構成は両親と姉4人の7人家族です(5人きょうだいの末っ子)。

 

父親は石炭商を営んでいましたが、徐々に落ちぶれていき最後は小さな青果店を営んでいました。

 

それも他人の家の土間先を借りて、わずかな野菜を売るほどでした。

 

舛添さんは自身の父親についてインタビューで次のように話しています。

 

「会社の大きいの持ってたけど、だんだん落ちぶれて。俺の頃は最悪、ただの飲ン兵衛だった。火事になって病気になって、すぐ死んだ」

 

幼少期には貧困を経験しており、子供の頃はおもちゃを買ってもらうことができなかったためナイフで木を削っておもちゃを作っていました。

 

当時のことについてインタビューで次のように話しています。

 

「八幡なんて、なんにもない町だ。鉄クズだけだ。そこで何か生み出すってったら、ココだ、頭使うしかなかったんだ。俺はそれやったもん、一生懸命」

 

また小学生の頃は体が弱く病弱だったことから、学校をよく休んでいました。

 

以上が舛添要一さんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。

 

1980年代後半から国際政治学者として数々のテレビ番組に出演しています。

 

また政治家に転身後も参議院議員や東京都知事を務めています。

 

 

未だに精力的な活動を展開しており、今後のさらなる活躍にも期待が高まります。

 

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