1980年代後半に一世を風靡したロックシンガーの浜田麻里さんの出身高校や大学の偏差値などの学歴情報をお送りいたします。驚くことに浜田さんは中学時代からプロの歌手として活動していました。学生時代のエピソードや情報、若い頃のかわいすぎる画像なども併せてご紹介いたします
浜田麻里(はまだ まり)
1962年7月18日生
身長158㎝
血液型はA型
東京都出身のシンガーソングライター
本名同じ
以下では浜田麻里さんの出身高校や大学の偏差値、学生時代のエピソードなどをご紹介いたします
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浜田麻里の学歴まとめ
出身大学:青山学院大学 文学部教育学科(中退)
出身高校:都立武蔵丘高校
出身中学校:中野区立第七中学校
出身小学校:不明
浜田麻里の学歴~出身小学校の詳細
小学校:不明
浜田麻里さんの小学校は、中野区内の公立校のようですが校名などは不明です。
ただし出身中学校の校区からすれば、以下の2校のいずれかの可能性が高そうです。
中野区立江原小学校
中野区立江古田小学校
家族構成は両親と妹、2人の弟の6人家族です。
妹の浜田絵里さんも歌手として活動しています。
浜田さんは小学校では合唱クラブに入っていました。
合唱クラブで下級生に教えたりしていた時、自分の音感の良さに気が付きます。
歌うことが浜田さんの日常になっていきました。
卒業文集にかかれた「私はプロのシンガーになるので、そのときは応援してください」というメッセージからも、小学生の頃からプロになると心に決めていたことがわかります。
小学校時代には両親に内緒でオーディションも受けに行きました。
とても行動力のある子どもだったようです。
浜田さんは「反対はされなかったけど、干渉もされなかったので」とおっしゃっていますが、我が子のやりたいことを静かに見守っていてくれる優しいご両親であることがわかります。
このオーディションで良い成績を収めてことが、中学生でスタジオボーカルとして活躍することに繋がります。
浜田麻里の学歴~出身中学校の詳細・中学生からプロだった
出身中学校:東京都 中野区立第七中学校 偏差値なし
浜田麻里さんの出身中学校は、地元東京都中野区内の公立校・第七中学校です。
浜田さんは中学校3年生だった1977年から、すでにテレビやラジオのCMソングを歌っており、スタジオボーカルとして活躍していました。
中学生のころから、音楽関係で仕事をしていたとは、すごいです。
後にロサンゼルスで収録を行うようになりますが、この頃から英語はよく勉強されていたのでしょう。
今も大変美しい浜田麻里さんですが、なんと中学校2年生の頃から同じ体重をキープしているそうです。
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浜田麻里の学歴~出身高校の詳細
出身高校:東京都 武蔵丘高校 偏差値55(中の上)
浜田麻里さんの出身高校は、都立の共学校の武蔵丘(むさしがおか)高校です。
この高校は1941年開校の中堅都立高です。
東京都立武蔵丘高校は、東京都の中野区にある公立高校です。
浜田さんは高校時代には音楽の道に進むことを決意していました。
高校入学後、趣味でロックバンド「麻里バンド」を結成し、ディープパープルやハートといったハードロックバンドの曲をコピーし、毎日練習に励んでいました。
そのバンドで、YAMAHA東京支店主催のアマチュアバンドコンテスト「EastWest」に出場し、ここでスカウトされたことがメジャーデビューへのきっかけとなります。
このコンテストは関東ローカルの大会でしたが、サザンオールスターズやシャネルズなど、後にプロとして活躍するバンドやアーティストが多数参加しています。
当時は松任谷由実さんや八神純子さん、尾崎亜美さんなどのニューミュージック系のアーティストが活躍していた時代でした。
ハードロック系の女性ボーカルがほとんどいなかった時代に、浜田さんのルックスと歌唱力は多くの人を惹きつけたことでしょう。
浜田さんもハードロックをやることが「新しいと確信した」とインタビューで述べています。
【主な卒業生】
青島幸男(元東京知事・転校)
住田隆(コメディアン)
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浜田麻里の学歴~出身大学の詳細
出身大学:青山学院大学 文学部教育学科(中退) 偏差値62(やや難関・現在)
浜田麻里さんは高校卒業後は、青山学院大学に進学します。
在籍したのは文学部教育学科です。
ただし当時設置されていた二部(夜間部・偏差値は48程度)との情報もあります。
大学に進学した浜田さんは、女性ロックバンド「Misty Cats」のボーカルとして活動を始めます。
大学に入学してから2年後の1983年に、ロックバンド「ラウドネス」のドラマー樋口宗孝さんがプロデュースしたアルバム『Lunatic Doll〜暗殺警告』でメジャーデビューを果たします。
(デビュー当時)
この時のキャッチコピーは、「麻里ちゃんは、ヘビーメタル。」で、これを考えたのがコピーライターやタレントとしても有名な糸井重里さんです。
浜田さんは、このキャッチコピーを最初に見た時は、アイドル的な売り出し方をされるのかと思い、びっくりしました。
ヘビーメタルというジャンルが限定されることに対して、やや疑問を持ちながらも、やはり人気のあるコピーライターにキャッチコピーをつけてもらったことは、素直に嬉しかったそうです。
また当時からルックスのよさは話題になっていました。
しかし当時浜田さんのように可愛らしい衣装でハードロックを歌う人がいなかったため、偏見をもたれ、ラジオや雑誌、また、まわりの先輩方からもかなりの批判をされ、大変苦労なさいました。
このように大学生ほどの若い女性が、世間の批判に負けず頑張る姿には尊敬の念を抱きます。
ただしメジャーデビューしてツアーなどもおこなったことから大学には通学できなってしまったようで、最終的には大学は中退してしまっています。
23歳のときには、初のシングル「Blue Revolution」を発表しており、全国ツアーも精力的に行い、この頃からすでにセルフプロデュースをするようになっていました。
この頃浜田さんは、出演したテレビ番組で「ライブの前には必ずステーキを食べる、体力がつくようなきがして。」とおっしゃっていました。
1989年には「Retun to Myself」が初のオリコン1位となって押しも押されぬ人気アーティストになっています。
その後もコンスタントにヒット曲を飛ばして、女性ロッカーの第一人者として知られます。
以上が浜田麻里さんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。
1980年代に異色の女性ハードロッカーとしてデビューして、80年代後半にブレイクしました。
当時は多くの大学の学園祭から引っ張りだこで、森高千里さんらと並んで「学園祭の女王」の異名をとっていました。
現在でも精力的に活動しており、2019年には25年ぶりの日本武道館公演もおこなっています。
根強い人気を誇る人物だけに、末永い活躍を期待したいところです。
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