沢田研二の学歴と経歴|出身高校大学や中学校の偏差値と若い頃のかっこいい画像

歌手の沢田研二さんの出身高校の偏差値などの学歴情報をお送りいたします。1970年代に一世を風靡した沢ださんですが、どのような学生生活を送っていたのでしょうか? 学生時代のエピソードや情報、若い頃のかっこいい画像なども併せてご紹介いたします

 

沢田研二(さわだ けんじ)

 

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1948625日生

身長171

血液型はA型

 

京都府京都市出身(鳥取市生まれ)の歌手、俳優

本名は澤田研二、愛称はジュリー

 

以下では沢田研二さんの出身校の偏差値や学生時代のエピソードなどをご紹介いたします

 

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目次

沢田研二の学歴まとめ

 

出身大学:進学せず

出身高校:京都府立鴨沂高校

出身中学校:京都市立岡崎中学校

出身小学校:京都市立第三錦林小学校

 

沢田研二の学歴~出身小学校(京都市立第三錦林小学校)の詳細

 

出身小学校:京都府 京都市立第三錦林小学校

 

 

 

沢田研二さんの出身小学校は、地元京都市内の公立校の第三錦林小学校です。

 

家族構成は両親と兄、妹の5人家族です(3人きょうだいの真ん中)。

 

 

父親は役者を志した時期があり、その後は映画のスチールカメラマンなどを経験しています。

 

また妹は脳性麻痺だったことから、家族全員で介護していました。

 

沢田さんは子どもの頃から人見知りで内向的な性格でした。

 

子供の頃には少林寺拳法を習っていました。

 

小学生時代から学校の成績はよく、スポーツも得意な文武両道型の少年でした。

 

沢田研二の学歴~出身中学校(京都市立岡崎中学校)の詳細

 

出身中学校:京都府 京都市立岡崎中学校 偏差値なし

 

 

 

沢田研二さんの出身中学校は、地元京都市内の公立校の岡崎中学校です。

 

中学時代は野球部に在籍をしており、ポジションは一塁手でした。

 

 

沢田さんはキャプテンになってからはチームの改革を試みたり、ユニフォームの仕様を変えるなど部活動に対してかなり熱心だったようです。

 

当時の将来の夢は野球選手になることでした。

 

沢田さんは野球を経験したことで、リーダーシップのようなものが育ったそうです。

 

加えて野球をはじめたことで自信がついて、人前に出ることにも慣れていったことを明かしています。

 

このことについてはインタビューで次のように話しています。

 

「人前に出れるようになったのは、じつは野球がきっかけなのね。唯一、野球をやりはじめて、これがうまかったんだよね。うまいと人の上に立って、キャプテンとかなっちゃうでしょう ?  そうなるとちょっと自分に自信が出てきたりするわけ(笑)。」

引用元:引用元:‘89SAY

 

野球では京都市大会で4位の成績を残すほどの実力がありましたが、京都府大会に進出をして負けてしまったことで野球選手になる夢を諦めています。

 

また中学生の頃の沢田さんはヤンチャで喧嘩をよくしており、「ケンカのサワケン」と言われて目立つ存在だったようです。

 

加えて中学生の頃から歌は好きで、音楽の時間には先生から前に出て歌うように指名されていました。

 

【主な卒業生】

湯川秀樹(ノーベル物理学賞)

田宮二郎(俳優)

青木愛(タレント、元シンクロナイズドスイミング選手)

 

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沢田研二の学歴~出身高校(京都府立鴨沂高校)・大学の詳細

 

出身高校:京都府 鴨沂高校(中退) 偏差値49(やや容易・現在)

 

 

 

沢田研二さんの出身校は、府立の共学校の鴨沂(おうき)高校です。

 

同校は1872年に設立された日本最古の官制女学校の京都一女を前身とする伝統校です。

 

またかつての同校は京都大学の合格者で全国1位になったほどの進学校ですがその後は低迷しています。

 

ただし沢田さんが在籍した当時も進学校で、現在よりはるかにハイレベルでした。

 

高校時代は空手部に在籍をしており、学園祭では瓦割を披露しました。

 

当時の沢田さんは目立つ存在で女子からも人気があり、校内にはファンクラブもあったそうです。

 

高校1年生の頃に音楽に目覚めており、友人に誘われたことでダンス喫茶「田園」に出入りをするようになりました。

 

そして沢田さんは「田園」でドアボーイのアルバイトをおこなっています。

 

その後に「サンダース」というバンドに声をかけられてボーカルを担当して、「田園」で歌っていました。

 

バンド「サリーとプレイボーイズ」が沢田さんのことをボーカルとして誘っており、このバンドに加入する形になりました。

 

 

ちなみに「サリーとプレイボーイズ」のサリーこと俳優の岸部一徳さんは、沢田さんを女性客を引き寄せる客寄せパンダとしてバンドに誘ったそうです。

 

沢田さんが音楽をはじめた理由は「学校が面白くなかったから」とのことで、当時はプロになろうなんてことは思ってもみませんでした。

 

このことについてはインタビューで次のように話しています。

 

「それにプロになろうなんて思ってもみなかった。僕らが若い頃っていうのは、レコードを出すとか、歌手になるとか、そういうのは夢の夢だったから。今みたいにオーディションの風潮もなかったし。15、16歳でデビューするのは、それこそ天才少年、天才少女っていわれてたんだから。」

引用元:‘89SAY

 

そして沢田さんは高校2年生の2学期に、この高校を中退しました。

 

このことについてはインタビューで次のように振り返っていました。

 

「高校は卒業していないんです。正式には2年中退。でも1年の2学期からほとんど行ってないから(笑)。」

引用元:‘89SAY

 

そのため大学などにも進学していません。

 

【主な卒業生】

田宮二郎(俳優)

森光子(女優・中退)

山本富士子(女優)

山添寛(お笑い・相席スタート)

 

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18歳の時に「サリーとプレイボーイズ」に正式加入しており、グループ名を「ファニーズ」に改めました。

 

 

そして沢田さんが19歳だった1967年に、グループ名を「タイガース」に改めて「僕のマリー」でメジャーデビューを飾っています。

 

 

するとバンドは2ndシングルの「シーサイド・バウンド」でブレイクして、以降も「モナリザの微笑」や「君だけに愛を」などの楽曲が大ヒットしています。

 

そのため「ザ・タイガース」はグループサウンズでも頂点に立つような絶大的な人気を誇りました。

 

23歳だった1971年に「ザ・タイガース」が解散して、萩原健一さんらと結成した「PYG」を経て、同年11月の「君をのせて」でソロ歌手としてデビューしています。

 

 

1973年の「危険なふたり」がオリコン初の1位を獲得。

 

以降も「時の過ぎゆくままに」や「勝手にしやがれ」、「カサブランカ・ダンディ」などが大ヒットして、1970年代を代表するアーティストのひとりになっています。

 

 

また俳優としても「太陽を盗んだ男」や「魔界転生」などの映画に主演しています。

 

 

私生活では27歳だった1975年にザ・ピーナッツの伊藤エミさんと結婚しましたが、1987年に離婚しています。

 

 

離婚の際には「18億円離婚」と報じられて、大きな話題になっています。

 

そして1989年に女優の田中裕子さんと再婚しています。

 

 

既に年齢は70代に突入していますが、未だに精力的に活動しており、末永い活躍を期待したいところです。

 

 

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ここまでお読みいただきありがとうございました。ご質問やご意見などがございましたら、お手数をおかけしますがページ上の「お問い合わせ」よりお願いいたします。また出身校や偏差値情報などのリサーチには万全を期しているつもりですが誤りなどがあった場合はご指摘していただけると幸いです。なお返信はあるだけ早くおこなうようにしていますが、数日かかる場合があることをご了承ください。

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