舘ひろしの学歴と経歴|出身は千葉工業大学・千種高校!中学校の偏差値と若い頃のカッコイイ画像

 

人気俳優の舘ひろしさんの出身高校や大学の偏差値などの学歴情報をお送りいたします。意外にも舘さんは「ぼんぼん育ちで」、大学は医学部を狙っていました。学生時代のエピソードや情報、若い頃のカッコイイ画像なども併せてご紹介いたします

 

舘ひろし(たち ひろし)

 

 

1950330日生

身長179

血液型はA型

 

愛知県出身の俳優、シンガーソングライター

本名は舘廣(たち ひろし)

 

以下では舘ひろしさんの出身高校や大学の偏差値、学生時代のエピソードなどをご紹介いたします

 

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目次

舘ひろしの学歴まとめ

 

出身大学:千葉工業大学 工学部建築学科(中退)→後に特別卒業認定

出身高校:愛知県立千種高校

出身中学校:名古屋市立白山中学校

出身小学校:名古屋市立新栄小学校

 

舘ひろしの学歴~出身小学校(名古屋市立新栄小学校)の詳細

 

出身小学校:愛知県 名古屋市立新栄小学校

 

 

 

舘ひろしさんの出身小学校は、地元名古屋市内の公立校の新栄小学校です。

 

舘さんは出身小学校を明らかにしていませんが、インターネット上やツイッターにはこの小学校の出身者であることや新栄地区に実家があったことなどが多数記されています。

 

家族構成は両親と弟、妹の5人家族です。

 

 

父親は内科医で明治時代から名古屋市内に医院を開業していますが、現在は医師の弟が跡を引き継いでいます。

 

また先祖は尾張藩の士族で、代々の住まいは尾張徳川家から拝領した築300年の武家屋敷でした。

 

また舘さんはインタビューで「ぼんぼん育ちだった」と話しています。

 

ただし紳士だった父親のことは今でも尊敬しているそうです。

 

「名古屋で開業医をしていました。どちらかというとぼんぼん育ちで、親子の関係もそれほどべったりしていなくて。自分が悪いと思ったら『昨日は理不尽なことで怒って申し訳ない』と子供にでも謝る人でした」。口癖は『男子たるもの紳士たれ』で、おやじもそうありたいと思ったんじゃないですかね。紳士の定義は自己犠牲じゃないかと思うんですよ。僕もそうありたいと思っています」

記事引用:日本経済新聞

 

その一方で母親のしつけは厳しく、小学校1年生の頃から名古屋の自宅から母親のある三重県四日市まで一人旅をさせています。

 

「お袋は厳しい人でした。僕が小学1年生の時、お袋の実家がある三重県四日市市に行くのに、名古屋駅から出ているバスに独りで乗せられて。1時間半の一人旅はすごく不安だったのを覚えています。かわいい子には旅をさせよと思ったのか、勉強にしてもすごく口うるさかったですね。医師にしたかったんじゃないでしょうか」

記事引用:日本経済新聞

 

舘さんは小学校時代から医者を志ていました。

 

小学校時代は成績優秀の優等生でした。

 

舘ひろしの学歴~出身中学校(名古屋市立白山中学校)の詳細

 

出身中学校:愛知県 名古屋市立白山中学校 偏差値なし

 

 

 

舘ひろしさんの出身中学校は、地元名古屋市内の公立校の白山(はくさん)中学校です。

 

舘さんは出身中学校を明らかにしていませんが、インターネット上やツイッターにはこの中学校に在籍したという情報が多数存在します。

 

中学時代に医者の息子ということでイジメを受けたためグレてしまい、当時は不良でした。

 

しかし前記のように高校時代にラグビーに出会ったことがきっかけに更生できたとインタビューで述べています。

 

「中学校の時、少しグレて、ラグビーで立ち直ったので高校時代はラグビーばかり」

記事引用:スポニチアネックス

 

ちなみに舘さんは大学時代に学業そっちのけでバイクなどに没頭したことから、「高校で立ち直って、またグレた」と話しています。

 

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舘ひろしの学歴~出身高校の詳細

 

出身高校:愛知県 千種高校 偏差値69(現在・難関)

 

 

 

舘ひろしさんの出身高校は、県立の共学校の千種(ちぐさ)高校です。

 

現在の同校は愛知県の公立校でも上位の進学校として知られており、多くの卒業生が難関大学に進学しています。

 

舘さんが入学した頃は開校2年目だったことから現在よりもレベルは劣っていたと推測されます(それでも進学校でした)。

 

高校時代はラグビー部に在籍していました。

 

 

当初は体操部に入部しようと思っていましたが、先輩に誘われてラグビー部に入部したことをインタビューで話しています。

 

「体操部に入ってバック転ができるようになろうと思っていたけど、1つ上の主将に誘われて入部した。細くて『タックルを受けるのがかわいそう』と言われて、ウィングに始まってセンター、FB。だからFWのことはよく分からないんだけど…。うさぎ跳びで鍛えて水を飲むのはダメな時代。つらかったな」

記事引用:スポーツ報知

 

舘さんはラグビー部ではキャプテンを務めており、高校3年間は部活動に打ち込んでいます。

 

当時の舘さんはニュージーランド代表の「オールブラックス」のファンだったことから、練習では1人だけ黒いジャージを着用していました。

 

高校2年生の時にはチームは県大会のベスト8まで進出しています。

 

ちなみに舘さんのポジションは「点取り屋」のウィングでした。

 

また趣味の絵画は高校の頃から本格的にはじめています。

 

加えて高校時代は女の子と熱心に遊んでおり、あまり勉強はしていなかったようです。

 

当時から医学部志望だったことから浪人していますが、浪人中も友達とナンパをするなどさほど熱心に勉強はしていなかったようです。

 

また浪人1年目で医学部の受験に再び失敗したことから、医者になることは諦めています。

 

「親が医者なので、医学部の受験に失敗して、医者になるのを諦めた19歳のときに、たぶん僕は終わったんです。だから、終わった人でもここまでがんばれるという見本かな(笑)」

 記事引用:Yahoo!japanニュース

 

【主な卒業生】

池田貴族(ミュージシャン)

 

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舘ひろしの学歴~出身大学(千葉工業大学)の詳細

 

出身大学:千葉工業大学 工学部建築学科(中退) 偏差値48(現在)

※現在は創造工学部建築学科

 

 

 

舘ひろしさんは高校卒業後は、2年間の浪人生活を経て千葉工業大学に進学しています。

 

医者の家系だったことから医学部を目指しますが受験に失敗して、進路変更をしています。

 

ちなみにバラエティ番組「誰だって波瀾爆笑」に出演した際に、受験したのは公立の奈良県立医科大学(偏差値69)と私立の東京医科大学(偏差値66)だったことを明らかにしています。

 

また浪人時代は東京の目黒区のシェアハウスに住んでいたことから適度に遊んでおり、友達とナンパに励んでいました。

 

この大学は千葉県習志野市にあり、舘さんは大学進学とともに学生寮に入寮していますが、寮の規則が厳しかったことから後に夜逃げするように退寮しています。

 

ちなみに舘さんが入寮していた寮は「夜逃げの四棟」と呼ばれ、夜逃げする学生が続出するほどで学生の間では「伝説」になっていました。

 

また大学時代は原宿の洋服店「GRASS」でアルバイトをしていますが、同僚にドン小西さんがいました。

 

大学在学中に岩城滉一さんらと出会いバイクチーム「クールス」を立ち上げています。

 

 

 

 

ちなみに岩城さんと出会うまでの舘さんはバイクの免許を持っておらず、岩城さんのバイクに2人乗りして教習所に通って免許を取得しています。

 

結成翌年の1975年には矢沢永吉さんに持ち掛けられて、「キャロル」の親衛隊を務めています。

 

 

また当時芸能事務所に出入りしていた岩城さんのつてで、同じ年にロックバンド「クールス」としてファーストシングル「紫のハイウェイ」でデビューしています。

 

 

 

ちなみにこの曲では舘さんはボーカルと作詞を担当しています。

 

なお舘さんはもともと芸能界や芸能活動に興味はありませんでしたが、契約金の200万円でハーレーが買えるからという理由で芸能界入りしています。

 

当時は芸能活動に没頭していたことから大学に長期間在籍したものの、結局は中退しています。

 

ただし母親が芸能界で失敗しても大学に戻れるように10年間も授業料を納付しており、大学を中退したのは30過ぎの時でした。

 

石原プロモーションのスタッフに「俳優としてもやっていける」と言われ、ようやくお母さんは大学に退学届けを提出しています。

 

とは言え舘さんは以降は俳優活動もはじめ、「西部警察」などにも出演。

 

 

そして36歳だった1986年から柴田恭兵さんや浅野温子さんらとともに出演した「あぶない刑事シリーズ」で人気俳優としての地位を決定づけています。

 

 

以降は数々の話題作のテレビドラマに出演しています。

 

なお舘さんは2021年に千葉工業大学からこれまでの功績を認められて、この大学の特別卒業認定制度によって卒業生としてみなされて卒業証書を授与されています。

 

これにより最終学歴も大卒になりました。

 

以上が舘ひろしさんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。

 

25歳の時に「クールス」のメンバーとして芸能界デビューを飾っていますが以降の活躍は周知のとおりで、俳優としてもシンガーソングライターとしても大きな成功を収めています。

 

 

未だに絶大な人気を誇り、石原軍団の主要メンバーでもありますから、末永い活躍を期待したいところです。

 

経歴/プロフィールの詳細

 

1975年に岩城滉一らとバイクチーム「クールス」を結成し、矢沢永吉らのバンド「キャロル」の親衛隊を務める。 

同年ロックバンド「クールス」のメンバーとしてデビュー。

1976年の映画「暴力教室」で俳優デビュー。 

同年の「男組 少年刑務所」で映画初主演。

1977年の「ロックン・ロール・ライダー」でソロ歌手としてデビュー。 

1979年の「西部警察」でテレビドラマ初出演。 

1984年に14THシングル「泣かないで」がヒットして、NHKの紅白歌合戦にも出場。 

1986年からの「あぶない刑事シリーズ」が大ヒット。 

以降も多くの作品に出演し、代表作は「刑事貴族」や「愛しの刑事」、「功名が辻」など。

私生活では1996年に13歳年下の一般人と結婚している。

 

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