沢田研二の学歴|出身高校中学校や大学の偏差値と経歴

 

沢田研二(さわだ けんじ)

 

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1948625日生

身長171

 

京都府京都市出身(鳥取市生まれ)の歌手、俳優

本名は澤田研二、愛称はジュリー




 

経歴

 

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17歳の時に岸部一徳が率いていた「サリーとプレイボーイズ」にボーカルとして加入。

 

 

グループ名を「タイガース」に改めて1967年に「僕のマリー」でメジャーデビュー。

 

 

2ndシングルの「シーサイド・バウンド」でブレイクして、以降も「モナリザの微笑」や「君だけに愛を」などの楽曲が大ヒット。

 

 

1971年にタイガース解散し、萩原健一らと結成した「PYG」を経て、同年11月の「君をのせて」でソロ歌手デビュー。

 

 

1973年の「危険なふたり」がオリコン初の1位を獲得。

 

 

以降も「時の過ぎゆくままに」や「勝手にしやがれ」、「カサブランカ・ダンディ」などが大ヒット。

 

 

俳優としても「太陽を盗んだ男」や「魔界転生」などの映画に主演。

 

 

私生活では1975年にザ・ピーナッツの伊藤エミと結婚したが、1987年に離婚。

 

 

1989年に女優の田中裕子と再婚した。

 

 

学歴~出身小学校・中学校・高校

 

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出身高校:京都府 鴨沂高校(中退) 偏差値49(やや容易・現在)

 

沢田研二さんの出身校は、府立の共学校の鴨沂(おうき)高校です。

 

同校は1872年に設立された日本最古の官制女学校の京都一女を前身とする伝統校です。

 

またかつての同校は京都大学の合格者で全国1位になったほどの進学校ですがその後は低迷し、沢田さんが在籍した当時も進学校で現在よりはるかにハイレベルでした。

 

俳優の田宮二郎さん(故人)や大信田礼子さんらも同校の卒業生です。

 

沢田さんは京都市立第三錦林小学校から京都市立岡崎中学校を経て、同校に進学しています。

 

小学生時代から学校の成績はよく、スポーツも得意な文武両道型の少年でした。

 

中学時代は野球部に所属して当時は本気でプロ野球選手を目指していましたが、中学3年生の時に京都市の大会で4位に終わったことで野球を断念。

 

高校時代は空手部に所属していますが、野球という大きな目標を失ったことから高校生活は「しんどかった」と語っています。

 

そのためジャズ喫茶でアルバイトしていた際に、「サンダース」というバンドに声をかけられてボーカルを担当。

 

するとそのステージを見ていた岸部一徳さんにスカウトされて、「ザ・タイガース」の前身バンドにボーカリストとして加入します。

 

 

そのため高校は中退してしまい、大学などにも進学していません。

 

とは言え、以降の活躍は目覚ましく、「ザ・タイガース」はグループサウンズでも頂点に立つような絶大的な人気を誇りました。

 

またソロ歌手としてデビュー後も売れに売れまくり、当時の音楽界の頂点に立つアーティストのひとりでした。

 

その後も俳優として映画やテレビドラマに主演したり、最初の妻だった伊藤エミさんとの18億円離婚など何かと話題を集めてきました。

 

2018年にもさいたまスーパーアリーナでの公演をキャンセルしたことが大きく報じられるなど、未だに世間の注目を集めています。

 

既に年齢は70歳になっていますが、未だに精力的に活動しており、末永い活躍を期待したいところです。

 

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